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 1134 簿記 [恋愛・結婚]




石垣島の高校に理系コースはなく、ひかるは商業コースで簿記やそろばんを習い、上京後たった二年間夜学の理系専門コースを出、局入り。
昼間は重労働のため、勉強もままならない。
入社時、専門知識は同期の連中に比べれば雲泥の差で、かなり出遅れていたため、情報最先端のシステムは驚きの連続でしたが、好奇心の固まりのひかるにとって最高の場でした。
父の言った、思った通りやればいい、これは生涯ひかるの座右の銘、となった。
進路や会社選び、仕事の上、結婚など、誰にも相談することなく、存分に思った通りを貫いた。
おそらく、このブログを見ている人でひかるより恵まれない境遇にある人は皆無でしょう。
かすかなチャンスを確実に生かす。後へは引けない境遇が効を奏したといえるでしょう。
そう、島育ちの子供は15才で親の傘下を出、親離れする。
親の庇護から外れるという事は、辛酸を舐める事になるが、この人生の第一関門をどう乗り切るかがその先を大きく左右する。
二十代、それは人生のチャージをする時期です。
タケシも泣かず飛ばずの二十代があったし、テリーも書いた通りで、ひかるも同期にズルズル置いてけぼり。
ちょっとしたチャンスで豹変していったのである。
経験からして、人生で一番大事なのは好奇心ではないかと思います。
よく夢を諦めない・・なんて言われますが、むしろ何でもかんでも好奇心をもってあの手この手でトライし続ける事が大事だ。
死ぬまで好奇心を絶やすな!
ひかるがメディア先進国アメリカをギャフンといわせたい。
そして出来たと自負。クイズやワイドショーなどスタジオ中心時、ロケの映像を全国のお茶の間へ流せばどんな変化があるのかテレビがどう変わるのか、好奇心の延長線だった。
ランプで育ったひかるは入社早々局の心臓部テレシネマスター職場へ配属、そこは送信システム、膨大な送出機材、放送直前の素材管理、30局のローカル制御、衛星回線制御システムなど情報の最先端。
高校は地元に理系がないため商業コース出、目を見張るどころではない。
しかし寸暇を惜しんでラックの裏へ潜り込む。スタジオのラック裏、中継車のラック裏などすべて解明。旺盛な好奇心を満たす絶好の場であった。
後にひかるは中継車を自作、その中継車で生放送までやってのける。情報番組、渡辺浩之司会、正義の味方はひかる自作機放送番組であった。
キー局はネット問題、巨額のスポンサー費等を考えると、VTRやローカル番組は別とし、まず自作機の使用は認めないであろう。キー局の歴史に自作中継車生放送番組の項目があれば、たった一人ひかるの名前が載るであろう。
一時、ダンプ松本などの女子プロレスがはやった時期があったが、その時も裏方としてひかるの存在があった。内容的には中継車を持ち込む状態だったが、そうなると会場等で制約を受ける。
ひかるは映像システムをコンポーネント化しその都度ホールの隅で組み上げ、バラすシステムを作り上げたのである。システムエラーで番組に穴が開けば膨大なペナルティーを要求される。
今なら簡単に出来るが、当時は大きなリスクを伴う手法を実行できる人はいなかった。
女子プロレス番組を見た人なら、当時他の番組にはないリアリティーにとんだ番組であったことわかるであろう。番組制作費をかなり安く出来たのも当然だった。

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y1133 高校


当然石垣島での下宿、高校を出ることなどあり得ないことだ。石垣島にいる父の弟、叔父が乗り込み、産まれた子が栄養が行き届かず三人も他界して、やっと出来た男の子だ、せめて高校くらいは出さないとあまりにもかわいそうだよ、と迫るが父は貝になるしかない。
とうとうひかるを叔父が引き取り、高校を出す事になり、一年おくれで入学。しかし二年も終わる頃、叔父と叔母の言い争いがひかるの耳に入る。
叔父はご用聞きの便利屋家業。五人もの子沢山が、自分の子供すら育てられないくせに他人の子供まで預かる甲斐性なしが・と。
二年終了で中退を決意し島に戻ると、今度は別の叔母さんが、もう少しだ、もったいない。私が預かると申し出、やっとの思いで卒業。
当然地元で働き親や周りに恩返しをすべきだが、どうしてもあの五コマ漫画の映画が見られるテレビが忘れられない。
父に上京を打ち明けると、思った通りやればいい、と絞り出すように言ったのである。
わずかばかりの、戻るに戻れない金。親や古里を捨て、本土玉砕を覚悟した特攻精神の原点。這いずっても引かない脳内プログラミングが出来てしまったのである。
ひかるはいつもあのカールブッセの、山の彼方の空遠く・幸い人の住むという・・を口ずさんでいたが、ひかるにとって、それは山ではなく海だった。
人口数百人の島から五万人の大都会、映画館のある石垣島。海の彼方の空遠く・・・
そして高校三年間、ひかるの脳内夢酵母は爆発的な発酵現象を起こし、沖縄本島を飛び越し、遙か海の彼方の空遠く、幸い人の住むという・・・東京があるという・・紙芝居ではない、映画が出るという魔法の箱、テレビがあるとという・・・
舳先へ立つひかるの視界に、巨大な東京、己の人生を存分にぶつけられる大舞台へたどり着いたのである。
人口数百人の島から五年後、一千万人の東京、そして放送界入り、全国のお茶の間、一億人を視野に活躍できる場を確保できたのである。
後は「これしかない!」
やるしかない、だった。
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y1132 おいしい画どす


ところがこの男、とんでもない事をしでかすのであった。
野球中継の技術総責任者は、中継車の中でカメラやVTR、音声や照明等に指示を出し、画像を瞬時に切り替えるテクニカルディレクター(TD)である。
このTDは12台のカメラ、6台のスローなど18画面、音響や照明など、インターカムで繋がっており、適宜に指示、かなり経験を積んだ15年、20年選手が通常は座る。
まさかの出来事だが、このB君、五年を待たずしてTDの席へ座っていたのである。
当然大ベテランは自分がTD席へ座る番。10年早い! と怒鳴りつけ、足を引っ張りそうなものだが、どういう訳かB君にはトチらせたくない、という雰囲気を持ってホローしたくなる性格だ。
大先輩、三カメさん、頂きました、あんがとさん・・
およよ、五カメさん監督キープ・・おいしい画どす、OK。なんて、京弁丸だし。
怒号飛び交う車内の雰囲気が、がらりと変わっていたのだ。
TD経験大御所から・B君は君が採用したひかる組だろう、どこを見込んで採用した、と聞かれたが、こちらが質問したいところです、と答えた。
勿論、甲子園経験A君も同期に負けじと、現在でも切磋琢磨中である。
今宵も後輩たちの成長ぶりをテレビで楽しみ、晩酌するひかるである。
ひかる中学卒業時、小児麻痺の妹は7才、どん底生活だった。その日の食べ物すら確保できない状況。
忘れようにも忘れられない食べ物それはカタツムリだ。
食べ物も底をつき何もない。雨が降ると石垣の合間から小さなカタツムリが這い出る。それを沸かして食べるのである。
勿論醤油や味噌もない。ぬるぬるし、殻ごとジャリジャリたべるのである。
母は痩せこけ栄養失調状態だが、必死にひかるの命を繋いだのである。
フランス料理、カタツムリが高級料理らしいが、ひかるにとってはゾッとする食べ物、生涯口にする事はない。
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y1131 映像分野アメリカ完敗


放送業界、歴史の最重要なVTR問題に立ち上がった人は一人もいなかった。アメリカへ立ちはだかった人はいなかった。
当時民放から見ると、国家予算にも匹敵する巨額の開発予算を行使していたNHKですら、このオメガ方式には関与する猶予はなかった。技術資料館にはオメガ方式、これに由来する物証は一行たりともないでしょう。
このオメガ方式、電子編集こそがNASA開発のVR-300を駆逐し、日本が先進国アメリカを一気に抜き去り、映像王国にのし上がった瞬間である。
ひかるは3年で方式問題、編集問題をクリアー、5年後にはアメリカ大リーグがお手本にするスローVTRを多用した番組をつくりあげたのだ。
全国のお茶の間が明るくなった事はいうまでもない。
チャンネルや電波の系列など、小さすぎる、コタツでテレビを楽しむ全国の人々を常に意識しろ、が口癖。
ひかるの上司は慶応大卒の切れ者と言われた人物だったが、ひかるの事は、タイ二ン(大人)タイ二ンと呼び、全幅の信頼をおいていた。
未来の番組作りを託せる社員を採用しよう、とひかるは新人採用に乗り出す。
サッカー番組の台頭は著しいものがあったが、当面野球は続くだろう、と考え野球番組メンバー採用を優先させ、筆記試験、書類選考から面接へと進んだ。
その中に甲子園出場者がいたので当確にしたA君、もう一人どうしても拍子抜けするB君がいた。
京都出身で、名前も公家が使う名前、応答が京都弁でくる。スポーツ系でもなく文系でもない。なに系にもあてはまらないが、ドラマのカメラマンでもやらせば使えるかな、と採用を決める。
新人は2年間、ドラマや音楽、報道取材やワイドショーなど、あらゆる番組の下働きをさせ、顔つなぎや適正を見極め、本人の希望も採り入れ、方向付けをし先輩に預け育てる。
一年が経った頃、つかみどころのないB君をどのジャンルへ当てるか悩んでいた。
しゃべりや対応のしかた、ふにゃふにゃに見え、どうやっていいのか、リンダ節、こまっちゃうな〜と歌いたくなる心境、が本人から野球をやらせて欲しいと言ってきたので、とりあえずやらせてみることにした。
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y1130 ソニー社長さんよ!


ソニーは昔、ホームビデオVHSとベーター方式戦争で大敗、放送用VTRもかなり立ち後れており、VTR事業撤退かと言われたが、ひかるの出現で一気に逆転、なお独占体制。
開発担当部長だったM氏は後に副社長まで掛け上っていったのである。
そこでまたまたひかるのズッコケが出てしまうのである。
ひかるは何時も会社の近く、すぐ戻れる一キロ圏内の焼鳥屋で後輩達と番組談義をしていた。
ソニーM氏から夜食をしたい、との連絡。夕方営業マンが迎えに来、連れていかれたのがホテルニューオータニ最上階の、当時最高級のフランスレストランだった。
髭の剃り後が青く、格闘技家風のがっしりした体格、ニタリ顔が似合わない、チョコンと乗った白い帽子がこれまた似合わない男がうやうやしく迎え入れた。
ひかるが主賓だと分かっているのだろう。横でメニューをさかんに進める。
これがまた訳の分からない言葉である。
焼鳥屋に指定席を持っているひかる、これ程上品な店、ひょんな外人に完璧に舞い上がってしまったのである。
とりあえず雰囲気を察したM氏が注文。目の前に訳の分からない食べ物が並べられたのであるが、ひかるは一度もホークを使った事がない。
使い方を知らず手が出ないのである。
野蛮ではしたないなーと思ったが、M氏がパンを手でチギッテいるので真似をした。ビールだけは通じるので、パンをちぎり、ガボガボとビールを飲む。
泡盛で鍛え、横綱を自認するひかるは雰囲気とひょんな外人に酔いつぶれてしまったのである。
たかがビールごときだが、雰囲気が人を酔わせる初体験をしみじみと味わった。おそらくこの店で豪勢なフランス料理を注文し、パンだけで終わらせた客はひかるだけではないだろうか。
あの青顎男は店員とこちらを指さしニタリニタリしている。おまえフランス料理を食べる資格のない田舎者が、と言っているように見え、愛嬌なのだろうが、空きっ腹にニタリは腹が立つ。
しゃくなので方言で、ウワ バポーンティピーピスカフォ〜ン ファ〜ナカ バフォ〜ン と方言で言ってやった。
それにしてもひかるは食べ物でよくズッコケる。
ソニーの社員がこのブログ見ていたら、社長に伝えてくれ。
ひかるがニューオータニでのリベンジマッチ待っている、と・・
当時、ソニーはアメリカナイズナンバーワンと言われた企業で、他のメーカー営業マンは飲み屋の接待、場合によってはゴルフ接待など常識だったが、ソニー営業マンは喫茶店のコーヒー代とて、必ず宛名にソニー名がないと認められない、とぼやいていた。
接待がタブーな企業が名もなきひかるを日本で一番高級なレストランでもてなす、どれだけ利益をもたらしたのか計り知れないだろう。
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1129 テリーを生かす [恋愛・結婚]




機材は各メーカーが協力体制を採っているので時間の問題だろう。
問題は完璧にテリーに反発しているスタッフだ。
帰りに焼鳥屋へ立ち寄り、この番組は思い切った強化策をとる、と切り出すとM君は、怪訝な顔をしていた。
カメラ、音声、VTR課の課長がすべてスクラムを組みスタッフを出さない事になっている。
ひかるが部長命令を出したとしても社内事情は無理だと分かりきっている。
業界にはボツボツフリーでやっている人がいるはずだ、彼たちを動員しよう、と言うと、やったー、と膝を叩いて納得。さすが、と握手をして来た。
ゴールデン番組なので日当は割り増し払いの触れ込みに、一気にスタッフ問題は解決。
テリーはまだ初心者、タケシとの間を取り持ち充分なるホロー体制を取るように、とMカメラマンに指示。
軌道に乗っていったのです。
当時、雨傘番組だと手を抜き、二流カメラマンを当てるのが普通だが、キー局のゴールデンカメラマンを裏番組、当面の敵局に惜しげもなく当てる。
ひかるがいかにロケの映像を茶の間に届ける事を重視していたか分かるだろう。
またこの番組では各メーカーの試作機を次から次と取り寄せテスト。
ノーハウは後のオールロケねるとん番組へ繋いでいったのである。
テリーは、ひかるがロケの統括としてバックに控えていたから、社会人初の大きな番組のディレクターが勤めあげられたのだ。
タケシもこのMカメラマンがいたから軌道に乗ったと言っても過言ではないだろう。
民放に勤める人なら誰もがあの巨額の予算とキャスティングで展開する大河ドラマを凌ぐ番組を作りたい、と思うがレギュラー番組では実現していない。
そう、ひかるとMカメラマン コンビはいとも簡単にそれを実現したのである。
当時の日テレ、フジTV、両局の視聴率を合算するとレギュラー番組で常に大河ドラマを上回っていたのだ。
ひかるが、あの東大卒駿腕ディレクターと一歩も引かない覚悟で臨んだ裏には、この読みもあった事を書いておこう。
タケシのスタジオ部分は日テレ局社員制作、完璧とは言えないが、ロケに頼る点も大であった、おまけ解釈。
日本テレビさん、ごめんね・・・

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y1128 立ち往生


テリー伊藤君の若き頃を書いてみよう。
彼は学生運動の火炎ビンで斜視になった、と他のブログで書いてあったので書くが、卒業直後タケシの元気が出るテレビのディレクターだった。
勿論番組作りは初めてで、ロケの技術を受注したのがひかる。
スタート時、テリーはあまりにも番組作りを知らな過ぎる。
番組にならない、とスタッフが総スカン、立ち往生してしまったのである。
Mカメラマンにはゴールデン番組なので決して手を抜かないよう指示はしていたが、とうとう彼ですら限界を超えた。
残るはひかるがロケ総責任者として一括すべし、との事になり会うことになった。
会ってびっくり、彼は童顔でどう見ても学生アルバイトではないのか、いかに雨傘番組とて、と思わせる状況。
更に火炎ビン事件直後なので、斜視があまりにもひどかった。
そして赤面、猿が温泉で真っ赤な顔をしている状態。
更にどもりのひどさ、どどど・・もも・・・り・・と言う感じで、唇の両端には白い泡だ。
ひかるも人前でのしゃべりが苦手で、一括どころか、目の前のあまりの出来事に、つい同情の念が先立ち呆然と忘れてしまった程である。
彼の学生時代の同僚なら、なるほど分かると言うはずだ。
今の彼からはまったく想像出来ない。
静かに耳を澄ませ聞くと、言っていることに理はある。この男を潰す訳にはいかない、ホローしようと、感じたのである。
ひかるは当時、東芝、日電、ソニー、池上通信機など国産ロケ用カメラ、レンズはキヤノン、フジノン、音響はワイヤレスの開発などかけずり回っていた時期だ。
テリーは技術がついて来ない旨を言っているが、一番ひかるがロケ機材、カメラ本体やバッテリーやレンズ、VTR等、開発を急ぐべく、メーカー特機部門を駆けずり回っていた時期、ひかるは一括どころか何一つしゃべらずに帰った。
小児麻痺の妹、アメリカ統治下の小島、障害者を抱える一家の悲惨は身に染みている。
斜視があまりにもひどいテリーはどう考えても障害者に見え、ひかるは切り捨てる訳にはいかなかった。
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y1127 さすが東大


M君をここまで育て上げ、上司として心より感謝しています。実は私もM君の才能を高く評価しています。
彼に民放両局のゴールデン番組のチーフを張らせ自信を付けさせたい。民放ナンバーワンのカメラマンにし、世界に通用する人物に育てたい。
そして、その才能ノーハウは今後、必ずフジテレビの為に使います。と淡々としゃべったのである。
H氏はしばらく天を仰ぎ沈黙の後、いきなり立ち上がると、握手を求め、この話はなかった事にしよう、と言ったのである。
さすが東大出だな、とひかるは感じいった。
論争を続ければ、ひかるは業界、世界までも視野に入れている、一局、一番組だけにこだわっている己がケツの穴の狭い男に写るか、また先ほどからの態度を見れば、この男は決して引かないだろう、クビが飛ぼうがみじん切りに会おうが平気だろう、ととっさに考えたのだろう。
ひかるは名字で即沖縄出身である事は分かり、普段は沖縄と呼ばれ、かくして沖縄東大紛争は決着した。
周りからはどうやって説得したのか、興味半分に聞かれたがひかるは何もしゃべらなかった。
ひかるはわざわざ放送業界や世界における日本のメディアの位置付けなど用意した訳ではない。
子供の頃より手に取るような天の川、流れ星を庭に育ち、入社当時は魔法の箱解明に専念.
10年もすると何時の間にか業界や世界を視野に入れた思考をするようになっていた。
今の若者達には光年単位で生きずく天の川を眺め、どうせ気がつけば短い一生、スケールの大きな人生を歩んで欲しいと願うゆえんである。
H氏はさすが東大出で、後に歌合戦はタケシに視聴率を食われ、あえなく終焉する。
しかしタケシはさんまと組んでタケちゃんマンでフジテレビに貢献する。
そしてひかるに新企画、ねるとんが持ち込まれ、即M君を起用、約束通りその才能をフジテレビに生かしたのである。
ねるとんは二つの大きな効果を局にもたらした番組である。
テレビ局は時間を売る商売だ。
当時ねるとんの時間帯はなかなか視聴率がとれない、売り物にならない死に時間帯で、それを何とかしたい、と模索の末の企画。
そのヒットにより、他の曜日の同時間帯にも火がつき大きな利益をもたらしたのである。
また前にも記したが、カメラとVTRを4台パラ回しで多重記録する事により、オールロケでど素人を主役にいとも簡単に番組が出来る事を証明。
以後ロケ番組が軌道に乗り番組革命が出来たのである。
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y1126 雨傘番組


タケシは20代、漫才でちょっとだけテレビに出ていたがその後、影が薄くなっていた。
浅草あたりでやけ酒を飲んでいる、と噂されていた。
ちょうど30歳になった頃だろうか、初めてタケシの名前を番組の冠に付けた、元気が出るテレビなる番組の企画が持ち込まれた。
この番組は日本テレビ系列、後楽園球場のドーム化前で、巨人戦が雨で中止になった時に流す、鬼瓦権造なるキャラクターでフィーラー番組、いわゆる雨傘番組であった。
名の通った役者なら断りそうなものだが、タケシは縋るしかなかったのだろうか。
当時、フジテレビ日曜夜8時は欽ちゃんのオールスター家族対抗歌合戦が好評。
ひかるはそのチーフカメラマン、M君を裏番組、タケシに起用する事にした。
歌合戦はスタジオ番組で日曜日収録、翌週日曜日放送でタケシは日曜日は収録無しとの事で起用を決めたが、ゴールデン番組の裏表。
両局のメンツがぶつかり、ひかるは窮地に追い込まれる事となる。
フジテレビの日曜8時、ゴールデン番組のチーフカメラマンを、いわゆる完璧な裏番組に起用する事にHディレクターが異を突き付けて来たのである。
担当課長等に交渉させるがらちがあかず、とうとう最後の砦、ひかるの出番となった。
H氏はフジテレビきっての東大卒駿腕ディレター、学生運動では安田講堂の屋上で大きな旗を振り、リーダー役、全国弁論大会を制覇して来た、と噂される弁舌家。
当時の芸能界大御所、古関祐爾や水江タキ子など、こうしましょ、こうして下さい、など歯に絹きせぬ自信溢れるてきぱきぶり。
フジテレビでは当時、早稲田卒が圧倒的に多くいたが、この東大卒にだけは勝てない、といわれていた。
かたやひかるは、子供の頃から25歳までオシと言われ、社内でも窓外族で通し、やむなく社の中心に据えられたばかり。
勝負は既にあったも同然と言われたが、ひかるは日本テレビ側にM君の起用を通達済みで、引く訳には行かない。
H氏にアポをとり会いに行くと、歌合戦の編集中だが、完璧に無視した態度。
待つこと2時間近く、ひかるはソファーで微動だにせず薄目で様子を見ていた。
この男、終電になっても明け方までテコでも動く気配がない、と観念したのか、Hディレクターは前に座ると一気にしゃべりだした。
何度も言っているが、M君は私が手塩にかけノーハウをつぎ込んで、やっとチーフが張れる迄育て上げて来た。
事もあろうに当面の敵局、裏番に起用するとは常識外だ。
向こうが軌道に乗れば、こちらの視聴率が喰われるんだぞ。子会社の身分で場合によっては君のクビだけではすまない、社長だって危ないぞ、とひかるを逆なでする事まで言われ、怒鳴り返したかったが、そこは忍々。
存分にしゃべらした後、たどたどしいながらひかるはしゃべりだした。
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